僕がこれまで数年間英語の勉強に力を注いできた中で経験した、興味深い気づきについて書く
言葉は概念を抽象化し、扱いやすくする
言葉とは、概念に貼られたラベルのようなものだ
ラベルは概念の象徴をとらえ、そのほかの要素は捨て去る
「湖」と聞いて、淡い青色の水面がおおむね丸い形を描き、ほとりには草花が生えている風景を想像したとする
このとき、水中で暮らす魚や湖底に転がった石、ときおり水を飲みに来る鳥や湖のそばで暮らす人々など、その湖が帯びている可能性のある豊かな性質のほとんどは無視される
この例ではラベルとしての「湖」が湖そのものを抽象化し、湖そのものが持つ複雑さを処理する認知的なコストを大きく下げているが、その多様な側面の大部分を切り捨ててもいる
私たちは言葉というラベルを介して概念が持つ意味を解釈するが、ここで見たようにラベルを通じた理解は表面的なものにとどまり、概念そのものの深みを捉えることができない
言語が異なれば、同じ概念に対する表現も違ってくる
価値観や文化、言語が異なれば、同じ概念に対する表現も違ってくる
どれほど似た境遇の人々を集めたとしても「湖」と聞いたときに抱くイメージが似たようなものになることがあるにせよ一致することがありえないのは、生来の考え方の傾向とこれまでの人生における経験の質が要因となって形成された価値観が異なっているからだ
言語が異なる場合、例えば英語と日本語では、同一の概念に対する言葉が持つ意味のズレが顕著なものになる
とはいえ英語と日本語の間で大抵の場合にスムーズに意思疎通ができるのは、それぞれの言語が共有する「意味の層」のようなものがあるからだ
そして英語と日本語を横断する中でこの「意味の層」を発見することこそ、「剥き出しの概念」と遭遇する鍵なのだ
英語と日本語を行き来する中で生じた変化
なぜ英語と日本語という2つの異なる言語で概念を把握しようとすることが概念そのものに触れることにつながるのか?
ここではその説明を試みたい
2つの言語で対象を見ることによる概念の立体視
立体視とは、左右の目がそれぞれ対象を異なる角度から捉えた映像を脳が合成することで、奥行きや立体感を認識する能力のことだ
片目だけで見ると、遠近感が失われた平面的な見え方になるため、遠近感がつかみにくくなる
これを言語に当てはめて考えると、1つの言語だけで対象を理解しようとする場合、奥行きが感じられないので意味の背後にある概念に触れることができない
一方、英語と日本語の2つの目で対象を覗き込むとき、概念に対するそれぞれの言語の言葉の解釈の範囲に生じるズレを頭の中で補正することで、それぞれの言葉の意味だけでなく概念そのものが立体的に見えるようになる
これによって文章や話された内容が本当に伝えようとしていることがより深く理解できるようになる
メタ言語能力の獲得
言語を客観的に観察し、自覚的に運用する力のことをメタ言語能力という
メタ言語能力を構成する要素の例には言語が持つ「構造」を捉え、言語を使って考えるだけでなく、言語そのものについて考えられるようになることがある
メタ言語能力を習得すると、文中の言葉に加えて言語の文法の特徴や典型的な表現の仕方、語の組み合わせの傾向を手がかりとして文章を読めるようになるので、思考力や読解力が向上するとされる
異なる言語に触れる中で、自然にそれぞれの言語を客観視するようになったことで、メタ言語能力が培われ、言葉になる前のいわば「思考の原型」にたどり着くことができるようになったのかもしれない
言葉のニュアンスの広がりや意味が持つグラデーションの認知
英語と日本語では同じ対象に対しても異なったラベル付けをしていて、それぞれのラベルに書かれた言葉の意味が占める領域は完全には一致していない(一部は共有している)
また、英語には「insight」や「serendipity」のように一対一で日本語に訳せない語があり、このような言葉の概念は日本語という体系の外部にあるといえる
要するに外国語を知ると自分が認識できる世界は拡張されるということだ
さらに、全く同じことを意味すると思っていた日・英の単語が、実際は文化や歴史的な背景、個人の価値観に応じて多様なニュアンスを帯びていて、意味する内容にズレがあることに気づかされることもある
もっと言えば、英語を学んで異なる価値観に触れたことで、日本語の単語の意味にこれまでにはなかった広がりを感じるようになったこともある
言葉が伝える意味については、以前は単色のイメージが断片的に見える感覚だったのが、連続的な色合いの変化を認識できるようになった
つまり、ある種の概念は他の多くの概念と関連していて、その結びつきの強弱は文脈に左右されて微妙に変化している
この変化の機微が意味のグラデーションとして感じられて、文章を読んだり聞いたりしたときのより核心部分に触れているという自信につながった
学ぶことは自分の中にある常識を再構築すること
英語を学び続けてきて、言語を単なる「記号」や「道具」としてではなく、概念を理解するための体系や「意味の空間」のようなものと考えるようになった
そして「意味の空間」が重なり合ったり広がったりすることで「言葉になってしまったことで失われた何か」が感じ取れるようになる
意味のラベルという、世界をモノクロかつ平板に見せてしまう色眼鏡を外せば、概念自体を掴むことができて、現実がこんなにも鮮やかで、立体的で、微妙な揺れ動きに満ちているという事実に圧倒されることになる
この特別な感覚は、言語習得によるものに限らず、異なる価値観を持つ人と会話したり、本を読んだりすることでも得られるかもしれない
言葉の深みや文章が持つ奥行きを味わうことができるようになる、この感動的で知的にエキサイティングな体験の素晴らしさが多くの人に広まればいいな



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